山々に見つめられながら、持続可能な社会を地域から企てる。長野県伊那市の農と森のインキュベーション「inadani sees」に潜入

ローカルでの起業にもっとも必要なものとはなんだろうか?

通常の起業であれば「資金」「人材」「オフィス」「ビジネスアイディア」などが真っ先に思い浮かぶ。ただローカルでの起業に大事なもの、それは安心できるコミュニティなのではないだろうか、と思うことがある。

都市部と違い人と人との距離が近く、起業するプレーヤーの数自体が少ない地方での起業。地域での慣習に配慮して思いついたアイディアをすぐ実行に移せなかったり、一度失敗すると地元コミュニティの中で立場が悪くなってしまったり。

仕事の選択の幅が狭いことが、若い世代の都市部流出に直結している市町村も多いだけに、地元で起業しにくいという課題は深刻だ。実は筆者がここ2年ほど2拠点居住をしている長野県伊那市にインキュベーション施設ができたことを最近偶然耳にし、興味を持った。

昨年2023年4月6日にオープンし、もうすぐ1年が経過しようとしているその施設「inadani sees(いなだにしーず)」は、中央自動車道の伊那ICから5分ほど車を走らせたところにある農と森のインキュベーション施設。「なぜ伊那谷でインキュベーションなのか?」という疑問を抱えながらも、まずは現地に見学に向かった。

長野県伊那市は、西を中央アルプス、東を南アルプスに囲まれた谷の町。標高590m〜3052mと標高差が約2500mもあるのが特徴的な地域だ。inadani seesは、その伊那谷の農と森や伊那谷の豊かな自然資源を生かして、持続可能な地域を創造するための企てを生み出し、それを見えるカタチに変えていくことを目指している。

エントランスにはいると、この日受付を担当していたinadani seesスタッフが暖かく出迎えてくれた。無人受付のワーキングスペースも多い今、入り口に人の気配がある施設はやはり安心する。

そのすぐ横に目をうつすと、ドライフルーツやジェノベーゼなどの伊那谷特産品の加工品や、inadani seesオリジナルのTシャツなどがにぎやかに並び、見た目にも楽しい。

この施設には伊那谷に縁のある多様なメンバーが関わっているが、この日はinadani seesの運営にマネージャーとして参画する、株式会社やまとわの森林ディレクター奥田悠史(おくだゆうじ)さんに施設を案内してもらった。

奥田 悠史 YUJI OKUDA 

株式会社やまとわ 森林ディレクター / inadani sees manager
森の面白さや豊かさを再発見・再編集してそれをプロダクトやサービスにしていろんな方に届けるのが仕事。大学を休学しバックパッカーで世界一周へ。世界一周中に、スペインでニセ警官に騙されクレジットカードを盗まれ、フィンランドでは一眼レフカメラを置き引きに。
帰国後、編集者・ライター、デザイン事務所を経て。森と暮らしがつながる社会を目指して、株式会社やまとわを立ち上げる。inadani sees立ち上げに伴いManagerとして参画。

まずは案内をしてくれる奥田さんの後に続いて、エントランス奥の扉を開けさらに奥へ。

そこには雛壇ステージや音響設備も完備した広いイベントホールがあった。

ここではinadani sees主催によるトークイベント、セミナー、会員同士の交流イベントなどが開催されている。ステージ雛壇の上には、中央アルプスをバックにした伊那谷の風景を地元作家が伊那谷産のアカマツやカラマツで表現したアートワークが飾られているのが印象的だ。

その更に近くには誰でも利用できるコワーキングスペースがあり、オンラインミーティングなどもできる個室のミーティングスペースも複数完備している。その利用方法や料金についてはinadani sees公式サイトを参照して欲しい。

2Fには「 Lab (ラボ)」と呼ばれる月額会員制のレンタルオフィスがあり、すでにドローンセンシングの技術を活用して林業や農業の課題解決を目指す会社や、地域材活用・森林コンサル事業、家庭用の薪ボイラーを開発する会社など、地域の自然資源に関わる事業を行う方々がすでに入居している。なかには伊那以外から移転してきた企業もあるそうだ。

この取材時には新たに空きがでるシェアオフィスの募集もしていたので、興味がある方は伊那市役所 耕地林務課まで問い合わせをどうぞ。

「なぜこの伊那谷にインキュベーション施設が必要か?と問われたら、それはやっぱりこの地域がつづいていくために、なんらかのビジネスが必要なんだ、という答えになります。

もちろん都市部の企業内の方に向けて『伊那谷は自然が豊かなので、ぜひワーケーションしに来てください』と言うのは簡単です。でも現段階では、都市部から来てもらうワーケーション先が伊那谷であるべき理由が少ない。

まずは地域で安心してやりたいことをできる環境をつくるために、心理的安全性が高いコミュニティをinadani seesの中で育てて、じっくりと面白いことや面白い人を集めていきたい。その上で『inadani seesには面白いひとやことが集まっているから、来ませんか?』と発信できたらいいですよね」と奥田さんは話す。

訪れた週の週末にも、コミュニティ醸成の一環としてミートアップイベント「SEES MEETS」が予定されていた。その他にも、inadani seesでは不定期開催の誰もが気軽に参加できる焚き火を囲む会を不定期に開催している。もしかしたら偶発的に隣り合った人と、火を見つめながら雑談を交わすことで、思わぬ企画のタネが育つ可能性もありそうだ。

「その他にも今後は、飲食に関する販売や活動ができるシェアキッチンや、エントランス付近に古本販売のスペースなどもつくり、さらに館内でできることの幅を広げていく予定です。

そういえば以前、伊那谷の特徴の一つである標高差を生かして、異なる標高の畑で採れた、品種は同じですが、味の違うりんご同士をうまくブレンドして、美味しいシードル(シングルブレンド)をつくっていた方がいらっしゃいました。

もちろん都市部にあるビジネスを地方に持ってくることも地域を盛り上げる一つのやり方ではあるけれど、僕たちはできるだけ伊那谷の自然資源を活かしたり、伊那谷の風景とともにあるビジネスをつくることで、伊那谷である必要がある営みを生み出したい。それが持続可能な『つづいていくまち』をつくることに繋がると思っています」

この日のinadani seesからの帰り道、道幅が広い2車線道路に出た瞬間にふと目線を上げると、伊那谷を囲む山々が複雑な緑色の陰影を表現していた。

inadani seesのロゴマークにもあるように、伊那谷で生活をしていると、伊那谷の象徴でもあるアルプスの山々がいつもこちらを見つめている。

この日ばかりは、その山々の目線が「きみたちはこの環境のなかで何を営み、どう暮らしていくのか?」という問いを、この地域で暮らす人々に投げかけているように感じられて仕方がなかった。

【参照ページ】inadani sees
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