木々が鬱蒼と生い茂ったブナの森の中、周囲に人工物は見当たらない。まずは黄と茶色の枯葉の上に敷いたレジャーシートの上に横たわり、頭、腕、足と、身体の一つひとつと対話しながら順番に力を抜いていく。
森に横たわったまま上を見上げると、目に入ってくるのは、四方に伸びて重なり合うブナの葉と枝だけ。あとはその隙間から柔らかく入ってくる木漏れ日。
次に目を閉じてみる。不思議なもので、ふだんは視覚にばかり頼っているせいか、聴覚や嗅覚、そして地面に接している背中の感覚などが急にクローズアップされる。
「カサッ」誰かが枯れ葉を踏む音。「チーチチッ」鳥が仲間に合図を送ってる?周囲の地面から、かすかに香る腐葉土のような土の匂い。
頬を撫でていく風と、身体に当たる木漏れ日の温度が、身体と気持ちを緩めてくれる。次第に周囲の音や匂いに慣れてきた頃、地面に背中が沈み込んで森と身体の境目が曖昧になるような、そんな不思議な感覚がやってきた。
あれ、だんだんと眠くなってきたかも….。
「リーーーン。チリーン….」
そこで自分の意識をふたたび現実の森に呼び戻してくれる、鈴の音が聞こえた。
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山形家小国町南部、温身平(ぬくみだいら)のブナ林での森林浴中に鈴の音を鳴らしてくれたのは、今回のツアーの主催、そして森の専門家として森林浴をリードしてくれる小野なぎささん(以下なぎささん)だ。
一般社団法人 森と未来 代表理事
東京農業大学 地域環境科学部 森林総合科学科卒。認定産業カウンセラー、森林セラピスト。
都会の人々の休息に森というテーマを取り入れ、森と共に豊かな未来に繋がる活動がしたいと、2015年一般社団法人 森と未来を設立、代表理事に就任。
彼女は一般社団法人森と未来の代表として、20年以上に渡って森林浴を通して日本の自然観を世界に広げる活動をしながら、延べ3000人以上の人を森に案内してきた。
今回の小国町森林浴ツアーの主催者でもあるなぎささんは、森林浴発祥の地、日本で学ぶ「森林ファシリテーター」という専門家の育成を手がける活動もしており、森と未来の重要な事業の一つとなっている。
森林浴とは
ちなみに森林浴とは、以下のように定義されている。
健康法として、森林の中に入り、すがすがしい空気にひたること。精神的な効能のほか、樹木から発散される芳香性物質フィトンチッドによる科学的な効果も見込まれる。
出典: デジタル大辞泉
実は森林浴は日本発祥のもので、現在では海外でも「Shinrin-yoku」として広まりつつある。森が人間の心身にもたらす効果は昔から経験的には知られてきたが、近年では、樹々が発する「フィトンチッド」と呼ばれる物質が人間にもたらす抗ストレス効果などを始めとして、森林浴の医学的効果が科学的に証明されている。
筆者としては、今回のツアーで緑と白のコントラストが美しい小国町のブナの森にどっぷりと浸かる体験を通して、普段は使わずにいる五感を取り戻し、自分と自然の一体感を得た感覚があった。こういった感覚を得られる体験を、個人的には森林浴以外に知らない。
これまで数々の森を案内してきたなぎささんにとって、お気に入りの森の一つだという今回のツアーの舞台、山形県小国町。そこでの1泊2日の森林浴ツアーを通して、今回なぎささんが参加者に伝えたかったものは何だったのだろうか。
山形県小国町の「白い森」
北の朝日連峰と南の飯豊連峰とに挟まれ、737.56平方キロメートルという広い面積を有する小国町。その面積の9割をブナをはじめとした落葉広葉樹の森が覆っているのが小国町の特徴の一つ。
ブナのきめ細かい木肌の白と、日本有数の豪雪地帯と言われる小国町の冬に降り積もる雪の白。2つのイメージを重ね合わせて、小国町の森は「白い森」と呼ばれている。このブナの森が、山菜やきのこ類、サルや熊、昆虫や微生物までの多様な生態系を育み、豊かな山の恵みをもたらしている。
また日本海側特有の気候の影響で雨や雪が多く、その雪が小国の澄んだ渓流をつくりだし、イワナやヤマメなどの川魚も豊富。ブナと雪が生み出す豊かな山の恵みと共に森の中で暮らしながら、独特の「ぶな文化」を育んできたのが小国町の人々だ。
その小国町のブナ林を散策していると、いくつかブナ林ならではの特徴に気づく。たとえばブナの森にはきのこ類が多く、地面はもちろんのこと、木の幹などにもきのこが密集していること。
これはブナ科の木の特徴として、菌類と樹木の根が共生して「菌根」というものを作り出していることが原因だそうだ。
樹木にとっては菌根を形成することで、菌類が作り出す有機酸や抗生物質による栄養分の吸収促進や病原微生物の駆除等の利点があり、菌類にとっては樹木の光合成で合成された産物の一部を分けてもらうことができる。つまりこの白い森の中で、ブナの木にも、菌類にとっても双方にメリットがある「相利共生の関係」が成立しているということ。
広葉樹の森は多様な植物が混じり合いながら生えていることが多いが、今回小国町のブナ林を散策していると、ブナだけが適度な間隔を保ちながら生えていることに気づく。
「ブナは、他の樹種よりも芽吹きが早いので、太陽の光を優先的に浴びることができます。そのため、ブナの森は、ブナだけが生える単一の植生を持つことが多いと言われています。」となぎささんが教えてくれた。
ただし単一の植生に見えるブナ林とはいえ、散策をしながらよく観察すると、さきほど挙げたキノコ以外にも、さまざまな動物、植物、昆虫、苔類に遭遇する。
そこにはさらに見えない菌類、その他微生物などの関係性が幾重にも重なりあって、この白い森の生態系が形成されていることがわかる。
小国町に残るマタギ文化
豊かな自然と厳しい冬の寒さと共に暮らしを育んできた小国町という場所には、もう一つ森や山と関連の深い文化がある。それは「マタギ」という、日本の東北地方・北海道から北関東・甲信越地方にかけての山間部や山岳地帯に広がる、伝統的な狩猟文化だ。
2日間の森林浴ツアーの初日、参加者一行は古くからマタギ文化を伝承している小玉川地区にある「マタギの郷 交流館」に立ち寄り、400年以上続くマタギの文化を先祖から引き継いできた現役のマタギである、舟山真人さんに話を伺った。
「熊を駆除する現代の”ハンター”の狩猟と、“マタギ”の狩猟はまったく違うものです」と真人さんは話す。
「現代のハンターの狩猟は少人数で行うものですが、伝統的な小国のマタギの猟は10〜30人程度の集団で行うもの。その手法は『巻狩り』と呼ばれます。巻狩りには役割分担があり、指揮をとる『ムカダテ』、熊を追い立てる『セコ』、熊を鉄砲で仕留める『一鉄砲・二鉄砲・三鉄砲』などの呼び名があります。
そしてマタギには『山言葉』と呼ばれる独特の言葉があります。熊を仕留めることを『サキノッタ』と言い、熊を解体することを『サナデル』、熊の心臓を『ホナ』、血を『マカ』などと呼びます。また熊を追い立てる時は『ホリャー』という掛け声が伝統的。これらの言葉は山の中でのみ使い、里に下りたら決して使いません」
集団での独特の狩猟方法の説明を聞いて、ふと浮かんだのはそれほどの大人数で熊を狩るマタギ達は、採った獲物をどう分けるのだろう、という疑問。
「現代のハンターは一部の肉だけを持ち帰り、余分な部位や内臓などは捨てていく場合もあります。一方マタギは熊の皮や内臓や爪など、全ての部位を余すことなく食糧や衣服、薬などの様々な用途に活用します。そして獲物は狩りに関わった全員で均等に分け、そこには年齢や役割は関係ありません。
熊を仕留めた後は、山の神に感謝するために、山の中に祭壇をつくって儀式を行います。それは『獲物を獲る、駆除する』という感覚ではなく、自然に対して畏敬の念を抱き『山の神から恵みを授かった』という感覚。こういった点が現代の狩猟とマタギの狩猟の違いです」
これを聞くと、現代のハンターによる狩猟や害獣駆除と「マタギの猟」は似て非なるものだということがわかる。このマタギという特殊な文化と、自然崇拝や山岳信仰にも通じる精神性は、今後どう受け継がれていくのだろうか。
「最近では狩りに関わる人が減っていて、若い世代にマタギの猟について現場で教える機会が少なくなっています。なので『熊祭り』というお祭りを開催して一般の方にマタギ文化に触れてもらったり、今日のように交流館でマタギ文化について観光客に話をする場を設けたりしています」
舟山さんによると、マタギが山菜を採る際には、5本見つければ2本は残しておくといった習慣があるそうだ。そこから伺い知れるのは、自然からの恵みを搾取し過ぎず、神に感謝しながらその恵みを共有物として周囲と分け合う、マタギたちの自然観や精神性だ。
舟山さんの話の後、この場を企画してくれたなぎささんは「以前、小国町で舟山さんから話を聞いた時、このマタギという文化や彼らの自然観を伝えていくべきだと思った」と語ってくれた。それを聞いて、今回の森林浴ツアーの舞台が小国町である理由がここにもあったのか、と腑に落ちた。
ふだんは都会に住んでいても、自然の資源から大いに恩恵を受け、それを当たり前のように享受している自分。こういったマタギ文化を後世に残すにはどうしたらいいのだろう、と考えながらその場を後にした。
白い森とマタギが教えてくれたこと
小国町の「白い森」の中での森林浴を通して身体で感じた、森との一体感。ブナ林の散策で目にした、相互共生的な生態系のあり方。豪雪地帯でもある厳しい自然の中で、山の神からの恵みを共有物として分け合いながら、400年の長きにわたって狩猟採集生活を続けてきたマタギたちの自然観。これらに触れることで、自ずと自然の恵みに対する感謝の気持ちが芽生えた。
そういえば森と未来のサイト内のなぎささん執筆ブログの中に、以下のような一節があった。
「ある時、海外の行政の方に、こんな質問を受けた。
『森林浴をするために、健康に良い森をつくりたい。何の木を、どのくらいの間隔で植えたら良いか教えてほしい』
なるほど。と納得した反面、何かが違うと感じた。
健康のために森と触れ合うことは大賛成だが、人間の処方のために森をつくる、という考え方は、どこかリスペクトにかけている気がした。ストレス社会で医療負担が増大する日本において、健康効果を期待することは頭では理解できるのに何に違和感があるのか、としばらく悩んだ。わたしにとって森林は、ただ木がたくさん植って育っている場所、だけではないという感覚がある。
森林は、多くの命が集まる共同体であり、何か宿るものが存在しているという感覚がわたしにはある」
これを読んで「生態系サービス」という言葉を聞いた時に自分が感じた、ちょっとした違和感を思い出した。無意識ではあるが「自然」という存在を矮小化して、人間の役に立つ「仕組み」として自然を捉えている自分に気づくことがある。小国町のブナ林とマタギたちは、そんな自分に自然という存在がどんなものかを教えてくれている気がした。
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今回の森林浴ツアーで、大地に寝そべる自分の身体をすっぽりと包みこんでくれた白い森で体感したのは、山や森はとても複雑な関係が幾重にも絡み合って形成されている大きな存在だということ。そして人間である自分自身もその自然の一部だということを、知識ではなく身体を通して感じるのに最適な機会として「森林浴」をお勧めしたい。
まだ森林浴を体験したことがないという方は、「森と未来」が主催する森林浴ツアーに参加して、森の一部になる感覚を味わってみてはどうだろうか。その際には、心や身体の奥に隠されている自然とのつながりを感じながら、自然の一部としての自分が再生される瞬間をぜひ体感してほしい。
【参照サイト】一般社団法人 森と未来 ―都会の人と、地域の森を繋ぐ―
【参照サイト】山形県小国町|白い森まるごとブランドポータルサイト
【参照サイト】やまがたへの旅 山形県観光公式サイト
【参照サイト】wikipedia「森林浴」
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いしづか かずと
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