Sponsored by 南三陸町観光協会
「サステナブル」「SDGs」
この数年で聞き飽きるほどに耳にしてきたこのワードは、世界全体で一丸となって持続可能な未来を描くために使われ始めた言葉で、当初は一定の自発性を伴うものだったように思う。しかしここ最近は、これは筆者の個人的な感覚だが、誰かに言われたから仕方なく取り組むものといった後ろ向きな義務感を伴って聞こえてくることが多くなったように感じる。
会社や学校、テレビや雑誌が「サステナブルな取り組みをしよう」と口々に言う。もちろん社会や環境に悪い影響を与えたくはないが、強制感を伴って言われるとどこか気が進まない。
そんなサステナブルやSDGsという言葉に、一部疑念を感じている方に特に訪れてみてほしい場所がある。宮城県南三陸町だ。南三陸には、仙台から車で1時間半ほど、東京からは新幹線と車で約3時間半で訪れることができる。
南三陸町は東日本大震災後、「自然と共生するまちづくり」を基本理念の一つに掲げ、サステナブルな取り組みを各所で推進してきた。森においては責任ある森林管理に関する国際的な認証である「FSC認証®」を一部森林で取得。海では責任ある養殖の水産物である証となる国際認証「ASC認証」を一部カキ養殖にて取得、また南三陸唯一の海水浴場「サンオーレそではま」はビーチ・マリーナ・観光船舶を対象とした世界で唯一の国際認証「ブルーフラッグ認証」を取得しており、ビーチの前に広がる志津川湾は湿地の保存に関する国際条約「ラムサール条約」に登録されている。里ではバイオガス施設「南三陸BIO」を開所し、町の住宅や店舗から排出される生ごみやし尿汚泥などをエネルギーや肥料として活用している。FSC認証®とASC、二つの国際認証を同地域で両方取得しているのは、2023年8月現在日本で南三陸のみだ。
もちろんそれぞれの取り組み内容も素晴らしいのだが、筆者が現地を訪れ担当者に話を聞いていくなかで感じたのは、この場所には前向きなサステナビリティの意識が息づいていることだった。
本記事では、宮城県南三陸町でサステナブルな取り組みを行う各事業者への取材内容をお伝えするなかで、読者の皆さんに「南三陸町の魅力」と「サステナブルな取り組みをすることの魅力」をお伝えできればと思う。
南三陸はサステナブルの実験場
「おはようございます!丸くなりましょうか」
朝のまだ静かな海岸に10人程の地域住民が集まっていた。その日は南三陸町観光課が主催するビーチクリーンの開催日。一見するとごみなど一つも落ちていないように見える海岸で、バケツとトングを手に参加者がごみと感じるものを拾い始める。
Photo by Kazuto Ishizuka
20分後、集められたごみは種類別に分けて並べられた。
Photo by Kazuto Ishizuka
「たった20分でしたけど、こんなに集まりましたね。海藻や魚の死骸なんかは、海のなかからきたものですね。竹や枝もあります。大雨が降ったときなんかに流れてきたものでしょう。どういった植物が南三陸町に生えているかもこれをみると分かってきますね」
何か気になるごみはありますか?ああ、これは船の甲板の一部ですね。グラスファイバーというガラスとプラスチックの繊維からできているので、丈夫だけど自然に還らないんです。ドアの蝶番もありますね。こうしたものは簡単には出ないので、恐らく震災の時に流されたものかと思います」
ごみを見ながら南三陸で環境調査や人材育成などの活動をする一般社団法人サスティナビリティセンターの太齋彰浩さんが話をする。
Photo by Kazuto Ishizuka
「ごみには自然に還るものと還らないものの二つがあります。自然に還らないものは、いつまでも分解されずに残ってしまうのが問題です。これなんだか分かりますか?南三陸の産業であるカキの養殖で使うプラスチックの管です。こちらはわかめ漁に使う化学繊維でできたロープですね。こうした自然に還らない漁具は安く手軽に手に入ることが多いです。私たちが手軽な価格で牡蠣やわかめを食べられるのは、こうしたものを使っているから。そう思うと考えさられますよね」
ごみを通じて自分の町や暮らしなどを見つめるきっかけをつくる活動をする太齋さんだが、以前はビーチクリーンに疑問をもっていた時期もあったという。
「『ごみをいっぱい集めて、こんなに取ったぞ』というのでは根本的な解決にならんなと思っていたんです。ただ、役場から声をかけられてやってみると結構面白くて。南三陸は漁業との関連が密接な地域なので、さきほどのように漁業資材が出てくるわけですよ。海のものを恵みとして住民は受けているんだけれど、その裏に課題もあるわけですよね。一般の方が気軽に参加して、ごみを通して世界や地域、課題を想像できるという意味でいい活動だなと今は感じています」
太齋さんは、このように住民や地域を訪れる人たち、一人ひとりに学びや体験の機会を提供し、ボトムアップから環境問題をはじめとするサステナビリティ課題の解決にアプローチしながらも、トップダウンでも変化を起こしていけるよう活動しているという。
Image via サスティナビリティセンター
「私が代表理事を務めるサスティナビリティセンターは、持続可能な社会を目指し、南三陸が町の将来像として掲げる『森里海ひと いのちめぐるまち』の実現を支援する目的で立ち上げました。
南三陸は人口1万人ほどに森里海そして人々の生活がぎゅっと凝縮されたコンパクトな町です。身近なところでいえば、先ほどのように落ちているごみからその背景にある課題や、自分が日常的に食べているものが作られる過程まで想像ができる、つまり物の背景にあるめぐり(何と何がつながっているのか)が見える。
またその他にも今、町で取り組んでいる生ごみやし尿汚泥の循環活動によってどの程度CO2排出量を削減できているのか数値化する活動も行われようとしています。めぐるをそれぞれのかたちで住民と行政の両方に見えるようにすることで、両側から変化を起こしていけるように活動しています」
「私はこの場所を『世界の縮図』と呼んでいます。コンパクトだからこそいろんな実験をしやすいし、見える化もしやすい。ここで実験して得た学びや実験結果が世界中にひろがり、持続可能なまちづくりに貢献することを期待しています」
全国でも珍しく南三陸には、町立の研究・教育施設である「南三陸ネイチャーセンター」そして、「一般社団法人サスティナビリティセンター」といった、持続可能性を推進していくための組織がある。何より、南三陸のサステナブルな取り組みを進める中心人物の一人である太齋さん自身が南三陸の可能性を強く信じている姿が印象的だった。
南三陸の「森」のサステナブルな取り組み
「小さい頃から山菜採りやピクニックでよく山に行っていました。山に行くときはおばあちゃんにいろんな注意をされました。飴は持ったかとか装備は大丈夫かとか。あとは南三陸町のシンボルバードである犬鷲(イヌワシ)の話もよく聞きました。
大きな鳥で、冗談まじりだけど犬鷲にさらわれそうになったとか。町長も含め、この土地は犬鷲好きな人が結構多いですね。山の環境の変化があって、今は南三陸にはいなくなってしまったんですけど、つい最近まで生態系の頂点にいた生き物でもあるし、行政や自然保護協会なども一緒に再生プロジェクトに取り組んでいます」
そう南三陸の山の記憶を共有してくださったのは、南三陸町で代々森林経営・林業を営んでいる株式会社佐久(以下、佐久)の12代目、佐藤太一さん。
Photo by Kazuto Ishizuka
「自然と共生するまちづくり」を南三陸町が始めることになったタイミングで、それであれば山においても持続可能な取り組みをしていかなくてはと考え、町内の複数の林業会社と連携しながらFSC認証®の取得に向けた活動を始めた。そして2015年10月に認証を取得し、現在は町の20%程の森林が国際認証林となっている。
取材日、会議室でお話を聞いた後、佐藤さんの案内で佐久が整備する森林を訪れた。林業を行う森はこれまでも何度か別の地域で訪れたことはあったが、そこは森とはいえ産業として林業を行う仕事場という印象で、正直“心地よさ”を感じたことは今までなかった。しかし、季節の影響もあったのかもしれないが、目の前に広がるFSC認証®を取得した彼らの整備する森には、ずっとそこに佇んでいたいような“心地よさ”があった。
Photo by Kazuto Ishizuka
「日本の林業においては、主に安全管理の意味合いから木々の根元に生える下草や木材利用予定の木以外の樹木などを刈ることが多いです。けれど色々調べたり取り組むなかで、下草を刈らなくても安全管理できることに気づいて、だからうちはほぼ全く刈ってないです。
下草や周辺の木々を残すことで、根っこに多様性が生まれ、雨が降った時も草がクッションになって優しく土に落ちていくので、土が水を蓄えやすくなります。林業において土が剥き出しになり固められた作業道を作ることも環境にダメージを与える大きな要素なんですが、それも下草を残しておくことで抑えることができます。
また森林の木々は地球温暖化対策として二酸化炭素を吸収する役割も担っていますが、まだ下草が担う炭素吸収の役割の評価はされていなくて。でも下草ももちろん光合成しているので、下草を残すことや、草があることで土中に増える微生物が行う炭素固定の評価も今後進んでいくのではないかと思います」
Photo by Kazuto Ishizuka
山には立ち枯れの木もそのまま残されていた。こうした多様な草木は、虫や動物の住処や餌場になり、生物多様性をうむことにもつながる。
佐藤さんが運営する佐久は、林業を行う組織としては珍しく自社スタッフに植物調査を行う専門家がおり、多様性のある自社森林の植生調査を年に一度、7年間継続して行っている。彼らは森林を、木材を生み出す場所としてだけでなく、動植物たちの生きる生態系として捉え、向き合っているのだ。
「佐久を代々運営する佐藤家は、いま私たちがいるこの森林だけでなく『荒島(あれしま)』という神社と多様な植生が残る離島も所有し保全しています。この島もFSC認証®を取得しており、生物多様性が感じられるような場所です。ぜひ訪れてみてくださいね」
Photo by Kazuto Ishizuka
「木を育てることだけが、佐久の仕事じゃない。先人が育て、守り、継いできた山に新たな価値を生み出す。それが私たち佐久の仕事です。」
と、自社サイトのなかでも自らのフィロソフィーを定義する佐久。会議室を出て、自らのフィールドである森林に入った時の佐藤さんの「これが私たちの森です。いいでしょう?」といった自分の仕事に対する誇りに溢れた顔が忘れられない。
南三陸の「海」のサステナブルな取り組み
「小さい頃は釣りばっかしてました。小学生のときも学校終わったら釣り。あと夏は海で泳ぐ。目の前に海があって泳げるのに夏休みの間に何回以上プール行かなきゃいけないっていう決まりがあって仕方なく行ってましたけど(笑)、海だと魚が泳いでたりして、そういうのが見えたほうが楽しいですよね。今でも釣り好きで、最近はヨガも始めました」
Image via 南三陸町観光協会
南三陸の戸倉地区、漁師として働く父親のもと海の目の前の家で生まれ育った後藤伸弥さん。高校卒業後、父と同じく養殖カキ・ホヤ・ワカメの漁師として働き始め、現在も漁師の道を歩んでいる。
「津波後すぐの時は『もうやれるもんじゃない』って思ってました。船も流されちゃったし、家もないし。生活する場所じゃなくなってしまうわけで。そうなってしまうと、ここで養殖やろうとは考えることすらできなかったです」
Photo by Kazuto Ishizuka
漁師の仕事を失った後藤さんは震災後、防波堤工事や復興の仕事をした。当時を振り返って後藤さんはこう語る。
「一次産業は休みが少ないけど、会社員になったら日曜日は絶対休みで、こういう生き方もいいかなと思ってたんです。正直、震災前に漁師をやってて一度も良い思いをしたことがなくて。養殖してる牡蠣も質が悪かったし、そんなにお金にならないし。
でも父親が戸倉地区の牡蠣部会長になるから、また牡蠣養殖をやらなくちゃならないってなって、俺も母ちゃんも『やめたほうがいいんじゃないの』って。それでも『またやる。自分でもう一回やりてえ』って言って、なんだか可哀想だなと思って。それで付き合う形で漁師を再開したんですよね。正直に言わないほうがかっこいいんですけど、最初スタートしたときはそういう気持ちで、自分から積極的に『やりてえ』って思ったわけではなかったです」
震災前、戸倉地区には37人の牡蠣養殖漁師がいた。彼らはみな、それぞれが少しでも多く生産量を上げるために競い合っていた。限られた漁場に、争うように過密状態で養殖棚を並べたことで、海の力は弱まり、牡蠣の排泄物による海水の汚染も広がり、その結果牡蠣の質も下がり、収穫量も減少してしまっていた。そんな漁場を全て、大津波はさらっていった。
何もなくなった浜で、後藤さんの父親「後藤清広さん」をはじめとした漁師たちは何度も話し合った。そして自分たちがそれまでやってきた養殖のやり方とは全く別の方法で養殖を再開することに決めた。養殖施設はそれまでの3分の1に減らし、自分のことだけでなく地域や海の未来まで考えた、量より質重視の牡蠣づくりを始めたのだ。結果、湾内の栄養がひとつひとつの牡蠣によく行き渡るようになり、それまでは3年の歳月をかけて養殖していたが、1年で良質な牡蠣に成長するようになった。そして2016年3月には、海の自然環境や地域社会、労働環境に配慮した養殖業に与えられる国際認証であるASC認証を取得したのだった。
Image via 南三陸町観光協会
「ASC認証を取得した後、今から5年前に、食べ物と生産者のことが掲載された情報誌をセットで提供する『東北食べる通信』というのに戸倉の殻付き牡蠣も出すことになって。そしたら、食べた人たちから『ごちそうさま!美味しかったです』って感想がたくさんFacebookグループに届いたんです」
Photo by Kazuto Ishizuka
取材に行った我々も後藤さんの自宅でぷりぷりの牡蠣が山ほど入った味噌汁をご馳走になった。これはお世辞ではなく、今まで食べた牡蠣のなかで一番美味しい牡蠣だった。「美味しい、美味しい」と言いながら食べていると、後藤さんが嬉しそうな、そしてちょっと照れ臭そうな顔でこう言った。
「なんていうの、この自信は、やっぱりこういうところから来てるんだよね」
「震災前まで質が良いものを作れてなかったときは『自分が作ってますよ』って自信もって出すわけでもないし、自分の名前が出ることもなかったです。けど、さっき話した『食べる通信』がきっかけで届いた『美味しかった』っていう感想を直接聞いたり、その後食べてくれる人とオフ会で交流したりしたことをきっかけに、いいもの出せてるんだなって自分の作っているものに自信を持つようになりました。その頃に自分が出すものはいいものですって、責任持って顔も名前もちゃんと出していくことの大切さのようなものに気づいたような気がします」
東北食べる通信をきっかけとして後藤さんをはじめ戸倉地区の4人の若手漁師が集まり「戸倉Sea Boys」といったグループも結成された。彼らはInstagramなどSNSを用いて戸倉の海産物の魅力を発信したり、旬の海産物を楽しむ消費者と生産者の交流会を実施するなど、食べる人とつながり、南三陸の海の幸の良さを伝えるため様々な活動を行っている。
Image via 南三陸町観光協会
「自分がつくったものを自信をもって出せるように、大変だけどこれからもいいものをつくっていきたいです」
南三陸の「里」のサステナブルな取り組み
ここまで南三陸の山や海で行われているサステナブルな取り組みについて紹介してきた。最後にお伝えするのは里の取り組み。南三陸では震災の経験から、「生命活動に必要な最低限のものはできる限り地域内で賄えるよう備えるべき」という考えを持つようになり、特に外部に依存していた電気、石油、ガスといったエネルギー面において災害に強い整備を行おうと「バイオマス産業都市構想」を掲げ、様々な取り組みを行ってきた。
なかでも特徴的なのが、町がアミタサーキュラー株式会社(以下、アミタ)とともに進めるプロジェクト「南三陸BIO」だ。南三陸BIOとは、町の住宅や店舗から回収した生ごみやし尿汚泥などを、エネルギーや肥料に転換し活用する取り組みである。
南三陸BIOの施設/Image via 南三陸町観光協会
「アミタは震災の3ヶ月後からボランティアとして南三陸に入り、翌年2012年には南三陸の復興を一緒にやっていきたいという思いで事務所を構えました。最初は現地に仕事も無かったので、赴任してきたばかりのときは町を歩くのが仕事でした」
そう当時のことを話すアミタ職員と出会ったのが、南三陸で農家を営む阿部博之さん(以下、博之さん)と、現在は「南三陸まなびの里いりやど」という宿泊研修施設などを運営する南三陸研修センターの理事を担当し、当時は南三陸町入谷地区の公民館で館長をしていた阿部忠義さん(以下、忠義さん)のダブル阿部さんコンビだった。
左:阿部博之さん、右:阿部忠義さん/Photo by Kazuto Ishizuka
「アミタが何者かも分からないうちに、接点をもって仲良くしてたのが私なんです。アミタがここでどういう事業を展開したらいいか全く暗中模索ななかで新しいオフィスを南三陸に開設して、開所式のご案内をいただいて。そこに、なんでか分かんねえけどたまたま暇だった俺たちが『今後の付き合いもあるかもしれねっからいってみっか』って行ってみたんですよ」
偶然の巡り合わせからアミタ南三陸オフィスの開所式に行った阿部さんコンビは、そこで挨拶をしていたアミタの熊野社長(現アミタHD会長)の言葉に感動したのだという。
「具体的に何話してたかは正直覚えてねえんだけども(笑)、震災後一年間『人間が生きるための基本というか一番必要なことってこういうことだよね』ってずっと仲間内で語り合ってたことを、理路整然と語ってくれたんですよ。それで、この人はすごい。この人だったら騙されてもいいって思ったんです。そこからアミタってなんかおもしろいなって話になった」
その後、農家であった博之さんはアミタの指導のもと、現地では初の取り組みであった無農薬のササニシキの米づくりを始めた。そこから1〜2年後、アミタが別の地域のBIO施設で作っている液肥(生ごみなどの廃棄物をメタン発酵し、電気・熱エネルギー化した後に発生する残渣物を肥料化したもの)を持ってくるので肥料として畑にまかせてもらえないかと依頼された。
「なんだかも分からない真っ黒い液ですよ。でも『いいよ、俺の田んぼさまけ』って言ってまいたんです。協力者がいないとどんな良い構想があっても具現化しないですよね。だから『俺がまずはやってみっか』って。実際に失敗もしました。病気にかかったんですよ。まわりの田んぼの人に何やってんだって言われたりして、菓子折り持って謝りに行ったりして。その時は肩身が狭かったですよね」
そうした博之さんの挑戦の成果もあり、その後建設、稼働開始した南三陸BIOの施設で作られた液肥も、残渣物として捨てられることなく各農家の畑や家庭菜園などで使われるようになり、今では南三陸の畑で春と秋に液肥がまかれる風景は日常になった。ロシア・ウクライナ戦争の影響から肥料が高騰した際も、南三陸町には液肥があったため周辺農家からは「助かった」という声が聞こえてきたという。
変化に踏み出し挑戦したことで完成した南三陸BIOの液肥を用いたお米は現在、「めぐりん米」という名前で、地域を訪れた人も一部店舗で購入したり、宿で食べられるようになった。
Image via 南三陸町観光協会
宿泊施設「南三陸まなびの里いりやど」を運営している忠義さんは南三陸BIOの取り組みについてこう話す。
「南三陸BIOで使う、生ごみは各家庭や宿泊施設などの事業者から回収していて、私が運営する宿もいち早く賛同して取り組みを始めましたけども、これがまた最初はね『分別がめんどくさい』ってブーイングがありましたよね(笑)。卵の殻、梅干しの種、ホヤの殻はだめだとかね。色んな事細かなルールがあるわけですよ。でも今はうちの宿では100%生ごみリサイクルやっていますし、習慣化して普通にやっていますよね」
「生ごみを回収、資源化して、残渣物まで余す事なく使っている」それはもちろん素晴らしい取り組みだが、実際にその取り組みが当たり前に日常になるまでの道のりは文字面で見て想像できるほど簡単なものではない。
南三陸BIOという施設をただ作ればいいわけでなく、生ごみを日々分別して出す住民一人ひとりの行動、得体の知れない黒い液体を使うと判断する一人の挑戦と実験、そして実験を踏まえての継続的な有効活用など、関わる人の様々な活動が集結して初めて成立しうるのだ。
「震災後はアミタ以外にもボランティアなどたくさんの人たちが支援にきてくれて本当に有り難かったです。でも台風が来ていたりとか、受け入れ側がキャパオーバーになっていたりすると正直受け入れるのも大変で、ボランティアの仲介人が『他地域で受け入れを断られてしまったんですけどどうしましょう』って来たりして。俺たちはそういうときも『大丈夫、受けっから』って、全部受けてきました。だって支援に勇んで来て、汗の一つもかかないで帰るって、こんな寂しい事ないんじゃないかなって思うから。
援助したいと言ってくれる人はいっぱい来るわけです。企業も大学も有識者も。でもそれを受け止めて能動的に展開するパワーがないと、それは何もならないわけで。だから『受援力』って大事だよなっていう話を博之さんともしてました。そうして受けた恩を別の誰かに届ける『恩送り』も」
外との交流が南三陸にもたらしたもの
アミタや復興支援ボランティアなど、南三陸には震災後多くの人が外からやってきた。博之さんは当時のことをこう語る。
「震災でもなければ一生会うことのなかった人と、普通に会えるんですよ。名刺見てびっくりするような一流企業の人といっぱい話もして、その人を通じて社会を知るみたいなことも結構あった。震災後は学ぶべきこと、得るべきことが多かったね。
あとは逆に自分たちの取り組みを、大学の先生に講義っちゅうかトークする場面も多かったからね。俺たちの普段の行いを、その方々は『素晴らしいね』って言ってくれて。だんだん俺たちがやってることは最先端っていうか、世の中に必要とされることなんだなって自信につながっていく。悪い気はしないというか、誇らしい部分はありますよね」
震災、そしてその経験を踏まえて南三陸が始めたサステナブルな取り組みは、町の外部との交流を生んだ。その交流のなかで、外の人たちが与えてくれたものを南三陸の人たちは全力で受け取り活かしていった。
「外」は「異」を多分に含む。黒い液体をみて「なんだこれは」と博之さんが最初に感じたように、自己保存をするために異なるものを拒絶しようとするのが人間の性であるなかで、南三陸の人たちは「外」を受け入れ、変化に踏み込む力を持っていた。そしてその変化や、「外」との交流は南三陸に強い「自信」をもたらした。
記事冒頭に記載した、筆者が現地を訪れ話を聞いていくなかで感じた、南三陸の人々のなかに湧き上がる前向きなサステナビリティの意識の根底には、この「自信」があったのだろう。
これから南三陸を訪れてみてほしい人
取材の最後、博之さんに「これからの南三陸をどんな人に訪れてほしいか」と伺うと、こんな答えが返ってきた。
Photo by Kazuto Ishizuka
「経済活動なしに人間は生活できないけれど、経済規模の縮小や人口減少っていうこれから日本の多くの地域に必ず起きてくることを頭から嘆くのはなんか違う気がするんです。そういったことも、南三陸は楽しめるようになっていきたい。
それに、本当に必要なことで経済が大きくなっていくんならいいんだけっども、なんだか今の世の中の動きを見ていると『本当にそれ必要ですか?』と思う。無理やり経済規模を大きくしていかないとだめだというような、虚像に向かって走っているような気がしてしかたなくて。『もっと足元見て、本来あるべき姿ってなんなの』って思ってしまうんですよ。
『人の幸せってなんだろう』って考えたときに、決して経済ではないなって思うんです。高いものを食べること、綺麗な服を着ること、良い車に乗ること、豊かさってそればっかりではないなってこの町は感じることのできる場所だと思う。うまい飯を食べて、うまい水を飲んで、おいしい空気を感じて、そういうのがやっぱり最高なんでねえかなって。
知識は邪魔になんねえからなんぼでも詰め込んでもいいし、入ってればいいと思いますけども、それだけを武器に生きていくっていうのは、すごく自分を鎧でがんじがらめにしているような気がして、隙がない人を作っていくような気がする。そういう人ばっかりになったら味気なくて俺は嫌だなあ」
ー
取材前は、南三陸に2022年10月にオープンした南三陸町東日本大震災伝承館「南三陸311メモリアル」がWebページ内で使う「自然とともに生きるを考える場所」としての南三陸の魅力を伝え、現地に足を運ぶ人が増えるようにはどうしたらいいだろうと考えていた。
それゆえ、各取材相手にも「『自然とともに生きるを考える場所』としての南三陸を満喫するうえで訪れてほしい場所や体験は?」といった質問を投げかけていた。しかし、現地を訪れ話を聞くなかで気づいたこの土地の一番の魅力は人、そしてその人々の根底にある自信や強く前向きな気持ちだった。
だからこそ、この記事を読み南三陸に行きたいと感じた人は、南三陸町観光協会に直接問い合わせてみるのもいいかもしれない。観光協会では学校や企業など団体向けのオーダーメイド研修・体験プログラムも提供されているほか、個人の場合はそれぞれの意向に合わせて滞在時に出会うことのできる地域の人や体験を紹介してくれることだろう。
南三陸には外から来るあなたのことを受け入れ、そのことで起きる変化を全力で活かし、前に進む人たちがいる。前向きなサステナビリティのパワーを感じに、いざ南三陸へ。
※本記事は、ハーチ株式会社が運営する「IDEASFORGOOD」からの転載記事となります。
【参照サイト】南三陸観光ポータルサイト
【参照サイト】宮城県南三陸町公式ウェブサイト
【参照サイト】一般社団法人サスティナビリティセンター
【参照サイト】株式会社佐久
【参照サイト】南三陸戸倉っこかき
【参照サイト】戸倉SeaBoys Instagram
【参照サイト】南三陸BIO/アミタ株式会社
【参照サイト】南三陸まなびの里いりやど
【参照サイト】南三陸311メモリアル
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