北アルプスの最奥部、中部山岳国立公園内、黒部源流域の標高2,600メートル付近に位置する溶岩台地、雲ノ平(くものだいら)。
どこから歩いても、たどり着くまでに1日半を要するというアプローチの長さ、そして北アルプスの中でも最後までまとまった開拓の手が入らなかったことから、近代登山の黎明期には「最後の秘境」と呼ばれていた。
水晶岳、三俣蓮華岳、黒部五郎岳、笠ヶ岳、薬師岳、立山連峰などの名峰に囲まれ、広い草原には池塘やハイマツ、火山岩が独特な空間美を織りなす。登山者にとって、日本国内最大級の憧れの場所のひとつだろう。
そんな雲ノ平にある、こちらも登山者が一度は泊まりたいと憧れる山小屋「雲ノ平山荘」。周囲の山々を含めたその姿の美しさは、写真や映像などで馴染みのある人も多いかもしれない。ここでは、山の環境や登山者の安全を守り快適な山旅を提供するという、一般的に山小屋が担っている役割のみならず、芸術や言論、環境保全活動とつながりながら、登山をアクティビティとして楽しみ消費するだけでなく、様々な価値観や視点を生み出す文化の源泉として捉えなおす取り組みが展開されている。
そのひとつとして、2023年に始動したのが「雲ノ平サイエンス・ラボ」だ。自然に関連した様々な学問に携わる研究者たちが、山荘を訪れ、実体験として改めて「自然」に出会い、他分野の研究者と交流しつつ考察を深めることによって、新しい自然観を醸成することを企図する取り組みである。山荘のオーナーである伊藤二朗さんは、この取り組みについて下記のように語っている。
○伊藤二朗
雲ノ平山荘代表 / 一般社団法人雲ノ平トレイルクラブ代表理事
1981年 東京生まれ 幼少より黒部源流域で夏を過ごす
2002年 父・伊藤正一が経営する雲ノ平山荘を引き継ぐ
2010年 2代目の雲ノ平山荘建設を企画・主導
2020年 アーティスト・イン・レジデンス・プログラム始動
2021年 登山道整備ボランティアプログラム始動
2022年 一般社団法人雲ノ平トレイルクラブを設立
2023年 雲ノ平サイエンス・ラボ始動
現代社会における「自然」を測る価値観が目まぐるしく変化するなか、人々は芸術や信仰(感覚、美学)、自然科学(生態系、現象)、人文社会学(関係性、感じ方、経済)、アウトドア(身体性、体験)など、「自然」の価値を測る様々な視点を生み出しながら、自己と環境との関係性を捉え直し続けてきた。今、資源の収奪と荒廃、文明の繁栄と孤立が紙一重で交錯し、目の前の小さな出来事さえもが、複雑な背景を経由しないと捉えきれなくなっている。 参照元:雲ノ平山荘 公式サイト
そんな現代社会において、人間はその複雑さを複雑なまま包摂し、理解を深め、「自然」と和解する手立てを見出すことはできるのかという問いを、伊藤さんは投げかける。そして、主に自然科学と人文社会学(複合領域含む)に焦点を当て、分野に捉われない思索や交流を展開したいと願い、活動している。
山荘で開催されたサイエンス・ラボ風景
山荘の活動のひとつ、2020年から始まった「アーティスト・イン・レジデンス」。こちらは、山をめぐる表現活動に、もっと多様性があってもよいのでは?という思いから始まった計画だ。
年間1000万人に迫る登山者が利用する北アルプスのような国立公園でさえ予算や人材が著しく欠乏し、自然保護のシステムがほとんど存在せず、社会に自然の価値や魅力を発信するべき学問や芸術の分野も低迷する中、各地で山の荒廃が進む現状に、伊藤さんは警鐘を鳴らす。
アウトドアカルチャーが普遍的な文化、日常生活に根ざした自然観の領域まで根付いておらず、あくまでも「趣味」の一ジャンルとして扱われてきた弱さ故の状況を打開するべく、より豊かな想像力を持ち、文化としての懐を深めていくことの必要性を説く。
絵画、写真、グラフィックアート、建築、文学、音楽など、あらゆる分野の表現を対象とし、同じ景色を見ても、捉え方、表現方法の異なる人達を迎え、山をめぐる芸術表現の発展に力を入れる。
夕焼けの雲ノ平山荘
Livhub編集部は、2024年3月29日、 パタゴニア主催のもと渋谷ストアにて開催されたトークイベント「山と私たちの対話 雲ノ平の環境保全活動」に参加し、これからの社会と自然環境に向き合おうとする伊藤さんのお話を伺った。当日のお話の中から、雲ノ平トレイルクラブ設立の背景にある国立公園や山小屋をとりまく現状、クラブによる環境保全活動の内容を紹介する。
山小屋の役割
山小屋とは、自然の価値を知るための前線基地だと伊藤さんは定義する。そして、環境危機、コロナ禍による都市化の脆さの顕在化、情報社会の混乱といった、社会の最重要課題が「自然」に接続する時代に、アウトドアの枠を超えて、より多くの人々が日常的に自然環境について思いを馳せることで、生活・文化・環境・経済が調和した社会を育む機運を作ることの重要性を説く。
日本は自然環境を評価する価値基盤が弱く、自然保護活動もアウトドア関係者による趣味の問題として捉えられがちという現状の課題に対し、価値の基盤から作っていくことが必要だ。その価値基盤を作る営みとして、芸術表現(景観)、人文学(人間と環境の関係性の考察)、自然科学(生態学)を挙げる。
トレイルクラブ設立の背景には、山岳環境の保全体制が崩壊の危機に瀕している現在、利用と保全のバランスが著しく消費的な観光利用に傾斜しているという現状がある。それらの解決のために民間レベルでの連携を強化し、下記目標達成のため、実践的な視点での活動を目指す。
- 自然景観、生態系の営みに調和するビジョンの醸成
- 自然環境をめぐる創造的な文化の形成
国立公園、登山道整備の現状
国立公園が抱える構造的な問題として、そもそも日本では自然保護に対する世論が弱く、行政の予算・人的資源も少ないため管理が充分に行き届かず、結果として保護や教育よりも観光利用に偏った形で発達してきたという点が挙げられる。管理体制は、山小屋や山岳団体などの民間の活動に依存しているのが実態だ。
近年、登山道の荒廃は加速している。背景にあるのは、高山地帯は寒冷で土壌の生産力が弱いため、表土が薄く生態系が繊細であること。そこが人に踏まれることにより裸地化が始まると、降雨、融雪、霜などの環境要因で浸食が拡大してしまう。
そのような場所を整備する方法として、コンクリートや丸太、金属や鉄などを使用した人工的な階段が作られている場所は多く存在するが、この状況にも伊藤さんは疑問を投げかける。登山というのはただ登れればいいというものではなく、自然が持つ景観や刺激に触れることによって心身が解放されるという、自然体験の本質を味わうことがその魅力であるはずなのに、それが奪われてしまうという視点である。また、自然環境への理解を伴わない人工的な素材・手法により設けられた階段などは、短期間で崩壊してしまうことも稀ではなく、それがまた新たな環境や景観の破壊につながる。
伊藤さんは、歩きやすさや利便性にとらわれることによって、自然体験(美しさ)が損なわれる懸念を指摘する。登山道整備は自然に無関心な人材には務まらず、近代土木的な計画では成り立たないのだ。これからの登山道整備に求められる要素として、登山道荒廃の原因を的確にとらえる観察眼と、生態系・景観・歩きやすさを一体的に扱う感性の重要性を説く。
雲ノ平山荘が目指す登山道整備のやり方
これまで行われてきた登山道の維持管理体制のうち、山小屋や山岳会による自助活動には、経営基盤の不安定化や人材不足などにより、持続性が低かったり、質が担保できなかったり、という課題がある。正式な権限を持たないため大きな問題には対応できない点も制約となる。公共事業や民間団体、学術機関などは、山のエキスパートがおらず現状把握や適切な事業計画の立案ができない、研究分野として低迷しているなどの課題を抱える。登山道の整備に民間団体が参画しようとしても、一般的に利用可能な制度がないことも整備が拡充しない一因だ。
現状では単独で事態を打開できる主体はおらず、山小屋・企業・民間団体・行政・学術機関などの共助によって、解決の可能性を見出していく必要がある。雲ノ平山荘では、東京農業大学と連携し、2007年より植生を復元させる活動を開始した。山荘では、植生復元活動には、土木的な工法ではなく造園的な方法論が必要であると考える。造園的といっても作意を前面に出す庭造りではなく、最終的には人の手によって復元されたことが分からなくなるような方法を探求する。
雲ノ平山荘の登山道補修で採用しているロール工法
15年におよぶ大学との活動は、大学の教員の職場環境の変化やコロナ禍など複数の要因により限界を迎える。より大きな連携の必要性に迫られ、2021年には登山道整備のためのボランティアプログラムを始動させた。山小屋・登山道専門家・学術機関・アウトドア企業・環境コンサル・ボランティアなど様々な立場の人たちが集まり、それぞれの得意分野を提供する形で環境保全活動や情報発信を継続的に行うことを目指す。
登山道整備の専門家を招いて行われる石積み講習
国立公園のあるべき姿
最後に伊藤さんは、日本で国立公園の環境が充分に保護されてこなかった背景に、日本は当たり前のように自然が豊かにあった現状に甘えてきた点を指摘する。
パタゴニア 東京・渋谷で開催されたトークイベントの様子
「持続可能な世界(の前提)とは、『このままでありたい』と人々が積極的にのぞむ『実感可能』な世界であり、国立公園は、『このままでありたい』と思える世界を思い出す場所でありたい」と、その想いを伝えている。
いつかきっと訪れたいという雲ノ平山荘への想いが、より強さを増したトークイベントであった。
雲ノ平山荘
公式HP:https://kumonodaira.com/
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