ノイズだらけの世の中だから。息継ぎをしに禅修行に行ってきた

Zen

世界を旅していると、その国の魅力を発見するとともに、母国である日本の良さにも気付かされる。

秒速5センチメートルで桜が舞ううらうらとした春、すいかに風鈴、線香花火が心をくすぶる夏、月明かりのもと紅に輝く葉がみのる秋、雪の日には温泉と甘酒が恋しくなる冬。めぐりめぐる四季、その循環のなかで色めく日本の花鳥風月は、人生をかけて楽しみ尽くしてもきっと飽き足らないだろう。

旅から舞い戻ったときには、「ただいま帰りました」と心の中でつぶやく。久しぶりに日本の真っ白でつやつやのお米を口にはこび味わい深く噛みしめていると、「やっぱりここがホーム、いつでも帰りたくなる場所なんだなぁ」と思う。

そう、お米といえば、日本では古くから米粒の中にも神さまがいると考えられてきた。
山の神さま、火の神さま、水の神さま、風の神さま、田んぼの神さま。植村花菜さんが歌うトイレの神様も、「水波能売神」という神さまだ。

日本には八百万神(やおよろずのかみ)がいると言い伝えられてきたが、この世に存在するあらゆるものには「神様が宿る」という考え方は世界のどこを見渡してもなかなか珍しい。

Shinto

Photo by Ken Smith on Unsplash

そして、そうした日本ならではの神道とともに手を取り合い、存続してきたのが仏教だ。茶道、武道、華道など、あらゆる日本文化の真髄には日本土着の神道と、日本の仏教がある。

ノイズから離れ自分を見つめ直したい

情報過多な現代の生活で、わたしたちはあらゆるノイズに晒されながら生きている。数分ごとにフィードが更新されるSNS、LINE、メール。携帯、タブレット端末、パソコン、最近では時計にまで通知機能が備わっていて、マメに情報をチェックしていないと損をした気分になったりする。

無意識にSNSのタイムラインを常にチェックしては、世の中から取り残される気分になったり、人生の中での自分の体験に不満を感じ、何か物足りない気分になってしまったり。そんな少し憂鬱な経験をわたしも幾度か経験し、昨年から少しずつ「デジタルデトックス」を実践しはじめた。デジタルに触れる時間を断捨離していくにつれ、ぼーっとする時間が増えた。一緒にいる人の話に前よりも集中できるようになった。

テクノロジーが発展したおかげで、わたしたちは世界の裏側で何が起こっているかリアルタイムでわかり、実際に足を運ばなくとも旅にでた気分を味わえるようになった。とても便利な世の中だ。でも、なかなか自分と向き合い、いまこの瞬間に感覚を研ぎ澄ます「余白時間」をつくるのが難しくなったのも事実。だからこそ、欲望あふれる世俗から完全に離れる隠遁生活とまではいかなくとも、ノイズから、世間から、少し脱出して自分を見つめなおしたくなったのだ。

息継ぎをしに、禅の世界へ

わたしが今回、息継ぎの場として訪れたのは京都の長岡京市にある「長岡禅塾」。

「長岡禅塾」は、住み込みで禅の修行に励む人を無償で受け入れている禅道場だ。以前は学生のみの受け入れだったが、最近では社会人の受け入れも行っているとのこと。禅への関心を持つ若者が減ってきているのがきっかけとなったそう。

そもそも禅とは、日本の仏教の一派。欲にとらわれず、何事にも執着せず、一点の曇りもない「無」の状態を最も重視し、 無になるために坐禅を行う。坐禅をしているときは、自分の考え、あらゆるモノコトに固執、執着せず、過去や未来の不安に囚われることなく、「いまこの瞬間」に集中する。

長岡禅塾

長岡禅塾から滞在の許可を得て、滞在初日。

「昨夜みたドラマ、おもしろかったな」
「今日は何をしよう」
「足がしびれてきた」

初めての坐禅の最中、煩悩にまみれてた自分に気づく。
おそるおそる細い目で隣の雲水さんに目をやると、背筋はぴんと伸び、なんとも凛々しい横顔でずしりと坐禅を組んでいる。もちろん内心までは覗けなかったが、内心は外にも現れるものという。そっと目を逸らし、ふたたび意識を自分へと移していく。

鳥のさえずり、木々の葉が静かに揺れる音がしだいに遠のき、呼吸の音、心臓の鼓動が体の中でこだまする。

姿勢を整え、すーっと深く息を吸う。お線香の薫りがほのかに広がる。
ゆっくりと、心にある雑念を出していくイメージで、ふーっと息をはいてみる。
すって、はいて、すって、はいて。ただ、息をするということに集中してみる。

呼吸が整ってくると、姿勢も自然に整ってくる。初めてのお寺での滞在に不安と緊張を抱えていた心もいまは、穏やかな波のない海のよう。ただここに存在しているだけで、心地がいい。

‥‥‥‥チーーーーン。

鈴(りん)の澄んだ音が禅堂に響き渡る。静寂をやぶるその音を合図に、坐禅の時間が終了した。

禅堂の外に広がる空を仰ぐ。漆黒の闇に包まれていた外の空は、浄化されたかのような淡いブルーへと姿を変えていた。

無我夢中で、草を抜く

坐禅を終え、朝食を食べた後はお寺の掃除。日によって掃除の内容は異なり、敷地内にある竹藪の落ち葉拾いだったり、禅堂の掃除、雑草抜きだったりする。その日は滞在者みんなで中庭の雑草を手分けして抜くことになった。

中庭に足を踏み入れると、その美しい庭園の姿にあっと息を呑んだ。青空にのびのびとそびえる松の木、その下には鯉が自由に泳ぎまわる立派な池が広がる。触るとふかふかの絨毯のような深緑の苔、小石が波打つわびさびの枯山水。すみずみまで念入りに、大切に手入れされていることがわかる。

お庭

和の集大成のような目の前の景色から足元に目をやると、ぐんぐん成長した雑草たちがそっと風に揺れていた。しゃがみながら、1本1本根っこからゆっくりと引き抜いていく。土を触ったのはいつぶりだろうか。蟻はせっせと収穫物を巣まで運んでいて、バッタは時折ひょこひょこ飛びまわる。普段は目を配らないところで生命の営みが、生態系が広がっていた。

「この子はずいぶんと深くまで根を張っているな」
「あ、花が咲いている。鳥が実を落としたのかな」
心の中でそんなことをつぶやきながら、草をひたすら引いていく。

とんとん。
肩を叩かれて、掃除の時間が終わりましたよと告げられる。そのとき、何事にも邪魔されず、文字通り無我夢中にただただ草を抜くという行為に集中していた自分に気がつく。雑草を取り除くなかで、自ずと雑念まで取り除かれていたことに一種の喜びを感じる。

そのとき、ふと「お寺の掃除も、禅の修行の一貫なんです」と語ってくれた老師の言葉が脳裏に蘇った。

物事の情況が変化するたびに、喜んだり心配したりする一喜一憂は、複雑化した現代ではごくごく当たり前の現象に思える。しかし、どこで何をしていても「心の平穏」という余白を保つことのできる土台を整えることで、今に集中し今を生きる、明鏡止水の心を持つことができるのかもしれない。

人生をご機嫌に生きていく上で、大切な気づきをもらった息継ぎ時間だった。

長岡禅塾
住所:京都府長岡京市天神2丁目16−1
公式サイト:https://nagaokazenjuku.or.jp/

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鷹永愛美

神奈川県横浜市出身。日々旅にして、旅をすみかとするデジタルノマド。わたしはどこから来たのか、わたしは何者か、わたしはどこへ行くのか探究中のスナフキン系女子です。文章やデザインを創りながら、世界の片隅で読書、バイク、チェス、格闘技に明け暮れている今日この頃。旅暮らしの様子はこちらから。