インドに行っても人生は変わらなかったーインドの聖地バラナシで考えた死生観

バラナシの景色

インドを旅する観光客を強く惹きつける街が、ガンジス川のほとりに存在する。
それがヒンドゥー教最大の聖地と呼ばれる「バラナシ」だ。

「聖地と呼ばれるからには、きっと壮麗で立派な場所なのだろう」

バラナシを訪れる前の私はこの街に対してそんなイメージを抱いていた。
しかし、このイメージはすぐにひっくり返ることになる。

バラナシの街は「混沌」でできている

3月のある日の早朝に、私はバラナシの郊外の地に降り立った。

まず降り立って圧倒されるのは、街に溢れる人の数。
こんなにひたすら続く人混み、隅田川の花火大会か明治神宮の初詣くらいでしか見たことがない…。

現地のガイドが言うには、私がバラナシに到着した日はヒンドゥー教の神様「シヴァ神」にとって大切な日だったそうで、街中にはこれでもかと言うほどインド人が溢れていた。

バラナシという街は、ただ歩くだけでもどっと疲れる。
溢れる人の間を、道を見つけながらガイドに遅れを取らないように進む。道はボコボコで穴や段差だらけ、おまけに犬や牛のフンまで落ちている。足元にばかり気を取られて歩いていると、「プーーー!」とバイクに大きなクラクションを鳴らされ、すぐ真横をすごいスピードの車がすり抜けていく。少し間違えば大事故だ。食べ物を持って歩こうものなら、どこからともなく現れる猿たちに食べ物をかっさらわれる。

おまけにバラナシの路地は、まるで迷路のように入り組んでいる。グーグルマップを頼りに歩こうとしても、全然マップが反映されておらず、道があるはずの場所が行き止まりだったりする。勘と現地民への聞き込みを頼りに狭い路地裏を進むしかない。

人口14億人のインド。その中の多くが信仰するヒンドゥー教の聖地がバラナシだ。インド国内のありとあらゆる場所から観光客がやってきてお参りをする。当たり前のことだが、その人数の多さに圧倒されてしまった。

「昔はバラナシはこんなに有名じゃなかったんだけどね。政府がインド人向けのマーケティングを実施したら、たくさんの人がこの場所に来るようになった。今じゃ人の数が多すぎる。カオスだよ」

バラナシ出身、バラナシ育ちの現地ガイドがそう語っていた。
「聖地」であるバラナシに私が見たのは、荘厳なではなく、圧倒的な「混沌」だった。

バラナシの街中
混沌の中にある「祈り」

でも「混沌」だけがバラナシじゃない。そこには聖地にふさわしく「祈り」がある。

明け方のガンジス川。私は眠い目をこすりながら、ガート(川沿いの沐浴場)を訪れてみた。
目に入るのは、肌寒い気温にも関わらず沐浴をする人々だ。

沐浴といっても、その形態は様々。
まるでプールに入るかのように友人や家族と楽しく騒がしくする人もいる。

そんな中で私の目に留まったのは、一人でそっと祈りを捧げるおばあさんだった。
どんなに周りがうるさくとも、どんなに人がいようとも、彼女は一人黙々と沐浴の決まった手順を行い、祈っていた。

人口14億人。まるで常に混雑した電車に乗っているような人口密度の国、インド。
そんな中で、あのおばあさんは「インド」ではなく、自分だけの世界に居たように思えた。

誰がいようと、何をしていようと、関係ない。
だって静かで人のいない空間で静かに一人で沐浴をするなんて、インドではほとんど不可能なのだから。

どんな環境であろうと、祈りを捧げている瞬間は常に「神」と「自分」だけがあるのかもしれないな、と思った。

沐浴をする人々
美しき祈りの儀式、プージャ

バラナシでは、夜になると毎晩プージャと言われる炎を使った儀式が行われる。
プージャとは、ヒンドゥー教にとっての伝統的な神への祈りの儀式のことを指す。(家庭で行われるものも、寺院で行われるものも等しくプージャと呼ぶ)

プージャは、バラナシにあるいくつかのガートで行われる。
川沿いに祭壇が数個設置され、そこにオレンジ色の服に身を包んだ男性たちが登り1時間半あまり儀式を行う。

祭壇に上がれるのは、カースト制度の中でも最高位に属する「バラモン」出身の人々だけだ。

リンリンと鳴る鐘の音と、身体に響く太鼓の音。
司祭たちは、その中でひたすら決められた手順にそって儀式を行っていく。

まるで踊りを踊るようにステップを踏みながら祈りを捧げる。
時折、司祭が空に向かって投げた花びらが舞う。ヒンドゥー教のシンボルである、サフラン色のマリーゴールドの花びらだ。

3000年以上もの歴史を持つヒンドゥー教。その中で脈々と受け継がれてきた儀式の手順。
祭司たち、そして周りに集まった人々が一斉に祝詞を唱え、神に祈りを捧げる姿は、とにかく美しさに溢れていた。

プージャの様子
全てを飲み込み受け入れる。バラナシの火葬場

バラナシで有名なのはガンジス川、そして火葬場だろう。

バラナシでは「死者の弔い」が日常的に行われている。
道端を歩いていれば、大きな声を上げながら白い布に包まれた担架を運ぶ人たちに高確率で遭遇する。
布に包まれているのは、遺体だ。ここでは日常の中に弔いが溶け込んでいる。

ガードをフラフラと歩いていると、見えてくるのは煙が立ち上る火葬場だ。
火葬場に近づくにつれ、普段焚き火で嗅ぐのとは全く違う臭いが立ち込める。

火葬場には屋根などはなく、更地が10箇所ほどのブロックに分けられ、それぞれに遺体を焼いている。

ふと火葬場を近くから見ていると、声をかけられた。

「もしここより先に入りたいなら俺に金を払え。案内してやる」
「金を払えば写真を撮らせてやってもいいぞ」
「薪代がとても高いから金を払って協力してくれ」
「チャイ、チャイ、チャイを買わないか」

観光客からお金を掠めようと必死な人。
しんみりとしている遺族。
大きな声で薪の追加を叫ぶ人。
同じくらいの音量の声でチャイを売る人。
山盛りの灰の上に座る世捨て人のような人。
やぎ。牛。犬。猿。そして他人が燃やされていくのを見る観光客。

全てがごちゃ混ぜに存在する、混沌。
インドは、死者を送る場所でさえもインドらしさに溢れていた。
俗も聖も全て丸ごと飲み込んでしまう。それがインドのスタイルなのかもしれない。

結局全ては灰と煙になってしまう

火葬場はパチパチという薪が燃える音と、独特な煙の匂いに包まれていた。
ゴウゴウと激しく燃え盛る炎の熱を肌で感じ、「自分は生きているんだな」と思う。
白い布に包まれた遺体が徐々に燃えていく様子眺めていて、こんなことを思った。

どんなにお金をたくさん持っていても、
どんなに綺麗な容姿を持っていても、
どんなにすごい偉業を成し遂げていても、
どんなに素敵な思い出があっても、
結局燃やされれば、最後にはみんな等しく灰と煙になってしまう。
死んだ後には何も持って行けない。

そう気づいた時、なんとも言えない無常感に包まれた。
なんだ、何をしたって結局最後は同じじゃないか。
きっと、輪廻転生や最後の審判を信じる人たちは、こんな無常感と向き合う術を求めていたのかもしれない。

でも、どんな風に生きたって変わらないのなら、精一杯やってみてもいいかもしれない。
その取り組みが誰かに死後評価されようが、来世に関係しようが、なんでも良い。
自分がやりたいことを精一杯やって、満足して終わっても良いかもな。

インドに行っても、人生は変わらなかった。
でも、インドに行けばきっと考えることはたくさんあると思う。
そこは日本の常識、そして西洋社会の常識とはかけ離れた価値観に溢れる場所だから。

もしインドに行こうか迷っている人がいるならば、私はぜひインドを訪れることをおすすめしたい。

本記事ライターは、世界中のローカルなヒトと体験に浸る世界一周旅中。
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Ray

世界のヒトを深く知れば、きっとちょっぴり世界に優しくなれるはず。そんな考えから、世界中のローカルなヒトと体験に浸る旅に出発。デンマークや逗子葉山でワークとライフのバランスを探った経験あり。ヒトと同じくらいネコが好き。