いま足跡を残さずに、自然を未来に残すために。「Leave No Trace Japan」が伝えたい7つの原則

登山を終えての下山途中。眼下にまだまだ続く下り坂を、慎重に足場を探りながら降りていく。疲れで棒のように固くなった足を少し休めたくなり、山道の横にあるちょっとしたスペースの切り株に腰を降ろし、水筒の水を一口だけ口に含んだ。なんだかじわっと生き返る気がする。

休んでいるうちに小腹が空いてきたので、昨日買ってリュックのポケットに入れっぱなしのプロテインバーのことを思い出し、リュックのポケットからそれを取り出した。山を下る涼しい風を肌で感じながら、そのビニール包装を開けプロテインバーにかじりついた瞬間、ふと気になったことがある。

登山道からちょっと外れた、天然の踊り場のようなこの場所。当たり前だけど、この場所には掃除をする管理人もいなければ、ルールを書いた立て看板やゴミ箱もない。もし今強い風が吹いてこの石油由来のビニール包装が飛ばされ、それを自分が見失ったとしたら?きっとこのゴミは劣化しながらも、ずっとそこにあり続けるだろう。

そんなことを考えながら、そのビニール包装をリュックのチャック付きのポケットの中に慎重にしまいこみ、また登山道を下り始めた。

自然の中には、人の手で管理されていない、ありのままの森や山などの手つかずの自然環境が存在する。ルールのない自然環境に身をおいた時には、私たちはどんな振る舞いをしたらいいのだろう?

人の手が入っていない自然環境には、従うべき決められたルールはない。つまり、そこでは今自分がしている行動が、自然環境に対してどんな影響があるのかを自分で判断するための「ものさし=基準」が必要になってくる。

ちなみに「ルール」とは、規則・習慣・支配するもの、などの意味を持ち、それに従うべき決まりごとを意味する。それに対して「基準」とは、平均的な水準や、社会的、実践的に望ましい性質や水準を指している。わかりやすい例をあげると「可燃ごみは火曜と金曜日に捨てること」というのが規則で、「そのごみの材質が可燃性か不燃性かを見分ける知識」が基準ということだ。

言葉の定義から話を戻して、そんな自然の中での行動の「基準」を考える上で今回紹介したいのが、環境に対するインパクトを最小限にして、アウトドアを楽しむための環境倫理プログラム「Leave No Trace(リーブノートレイス、以下LNT)」だ。

今回はLNTを提供しているNPO法人「Leave No Trace Japan(リーブノートレイスジャパン、以下LNTJ)」の代表理事であり、プレイングマネージャーとして直接指導もされている岡村泰斗さんにお話を伺った。

話者: 岡村 泰斗さん Leave No Trace Japan代表理事、 株式会社backcountry classroom代表取締役

2000年に筑波大学にて野外教育に関する論文では国内初となる博士号取得。その後奈良教育大学、筑波大学で野外教育を指導。2011年に現在の会社を主宰し、日本全国で、野外企業研修、野外指導者養成などの人材育成を行う。

2013年にWilderness Education Association Japan設立、2015年にWilderness Medicine Training Center(野外救急法)ビジネスライセンス取得、2017年にWilderness Risk Management Japan共同設立など、野外教育のグローバリズムとプロフェッショナリズムの国内導入を主導。

プライベートでも、登山、クライミング、パドリング、バックカントリースキー、ロードバイクなどを楽しむ。群馬県伊勢崎市出身。

LNTの7原則とは

「Leave No Trace」とは、環境に対するインパクトを最小限にして、アウトドアを楽しむための環境倫理プログラム。そのすべてのテクニックが、以下の7つの原則を基にしており、誰にでもわかりやすく、楽しく実践することができるものになっている。

1)事前の計画と準備(Plan ahead and prepare)

2)影響の少ない場所での活動(Travel and camp on durable surfaces)

3)ゴミの適切な処理(Dispose of waste properly)

4)見たものはそのままに(Leave what you find)

5)最小限のたき火の影響(Minimize campfire impacts)

6)野生動物の尊重(Respect wildlife)

7)他のビジターへの配慮(Be considerate of other visitors)

LNT7原則の詳細はLNT JAPAN 公式サイトへ

「LNTの7原則は、全ての人が環境へのインパクトを最小限にするためのわかりやすい基準です。もともとはバックカントリー(手付かずの自然が残っているエリア)で生まれたものですが、原生自然から、都市の公園、さらには家の庭に至るまで、全ての環境に応用することができます」

LNTとの出会い

筑波大学のゼミ内で、長年講師として野外教育に携わってきた岡村さん。そこで子供たちを整備されたキャンプ場ではなく、山の中の道なき道、つまりバックカントリーに連れていき、移動しながら宿泊し、生きる力を身につける体験学習を行っていた。ただ当時の国内や大学で行われている野外教育を見渡してみると、学問としての教育カリキュラムやリスクマネジメント、指導方法の基準などの様々な面において、理論的な背景が乏しく、指導者の経験知による指導が中心で、専門化に限界を感じていた。

大学での教育活動の中、90年代の終わりにアメリカの野外教育学会に参加。そこで出会ったのが、野外教育者の国際ネットワークである、WEA(Wildness Education Association)という団体。WEAはネットワークであると同時に、30年以上の歴史がある一つの学問体系でもある。日本と比較すると、アメリカでは野外教育の業界基準が明確で、一つの産業として成立している。しかもWEAは、野外教育を大学にカリキュラム認定するための基準をもった組織。岡村さんは「このWEAというプログラムを日本に取り入れたい」と思うようになった。

このWEAというカリキュラムの一部に、現在のLNTの元となる「環境倫理」という分野がある。それが岡村さんとLNTとの出会いだった。2003年にアメリカに渡った岡村さんは、2週間のWEAの指導者養成コースを学生と一緒に受講。ワイオミング州のロッキーマウンテンでの体験を通してLNTをどう実践するかについて学んだ。

WEAのカリキュラム(WEAJ公式サイトより引用)

「当時、アメリカと比較して日本の野外教育の遅れを感じ、その現状を変えない限り日本の野外教育がキャリアパスをつくれるような体系をもったカリキュラムにはならないと思いました。最終的にはWEAやLNTの内容が日本の大学のカリキュラムに採用されることが、私たちのビジョンの一つです」

野外教育を産業に

野外教育の統一基準をつくり、体系だった学問にする。それを学んだ人がキャリアパスの一つとして野外教育業界を選択できるように1つの産業として成立させる。そんなことを目指して、岡村さんは大学を辞職し、2021年に「backcontry classroom(バックカントリークラスルーム)」という野外教育のための企業を設立。2013年にはWEA JAPANを設立、そしてついに2021年にはNPO法人 LNT JAPANを立ち上げた。

「ガラパゴス的に日本独自の野外教育ルールをつくるよりも、やはり国際基準に沿っていた方がいい。それに野外教育のグローバルスタンダードがすでに海外に存在するのであれば、それに則った方が早いですよね。そして野外教育が産業として成立するには、社会人になってからでも学びたいと思った人向けに、野外教育のための教育機関を用意してあげることが必要だと思いました」

自律的にアウトドア環境を楽しめる人を増やすために

LNTを学んだ野外指導者やガイドは、ただ知識を説明するだけの存在ではない。LNTの原則はアウトドアの環境に対して禁止するのではなく、よりインパクトの少ない判断をする基準を示すものだからだ。

「アメリカの国立公園のガイドは、ガイドをしながらLNTの原則を伝え、ハイカーがいずれ一人でも自律してアウトドアを楽しめるようクライエントを教育します。その判断の基準となるものが、WEAやLNTの原理原則で、それを理解することによりハイカーが自律してアウトドアを楽しむことができます。WEAは比較的専門家向けの資格ですが、LNTは一般の方でも入りやすい内容と範囲のカリキュラムになっています」

実際にLNTを学ぶには?

実際にLNTの技術を身につけたいと思った時に、まず何から始めればいいのだろうか。

「LNTの教育体系は、アウェアネス、トレーナー、マスターエデュケーターの3段階に分かれています。アウェアネスワークショップは、1日以内のLNTの体験プログラムです。このプログラムはアウトドアを楽しむ子どもからお年寄りまでが対象なので、一般の方はまずはこちらから受講するのがおすすめです。

トレーナーコースは、16時間(通常2日)のカリキュラムで、LNTを楽しく学べるアウェアネスワークショップを指導できる資格を取得することができます。これはアウトドア活動を提供するキャンプリーダー、アウトドアガイド、施設職員、学校教員などが対象です。マスターエデュケーターコースは、40時間(5日間)のカリキュラムで、LNTの包括的なテクニックや、トレーナーを育成することのできる資格です。このコースの対象は、施設、団体で指導者養成を行うキャンプディレクター、ガイド団体講師、学校のスーパーバイザーなどになります」

日本での観光と野外教育の可能性

LNTは幅広いアウトドア環境に応用できる原則だが、もともとはバックカントリーの中で生まれたもの。日本の国土は7割が森林であり、その国土が狭いからこそ都市部から野外教育に適した手つかずの自然がある場所にアクセスしやすい。日本という環境は、バックカントリーを楽しむ場として、また野外教育の場として適した環境だと岡村さんは語る。

「ニュージーランドは世界屈指の自然観光立国ですが、今後は日本にも可能性があると思っています。日本には地域ごとに多様な風土があります。谷が違えば、言葉や文化も異なります。また、一つの国の中で流氷とサンゴを見ることができるのは日本しかないように、多様な自然環境もあります。どこに行ってもその土地ならではの文化や自然を楽しむことができ、日本各地でその土地ならでは野外教育を可能にします」

LNTを身につけ、手つかずの自然へ踏み出そう

とはいえ、おそらく大部分の人が管理者の手が入ったキャンプ場や自然公園など、つまりフロントカントリーでのアウトドアを楽しむことが多いはず。そこから一歩踏み出して、より自律的に自然の中で遊ぶためには何から始めたらいいのだろうか。

「日本は手つかずの自然に溢れています。自己判断する機会に限界があるフロントカントリーでアウトドアの楽しさを体験したら、次はLNTのような技術を学び、必要な装備や技能を身につけて、自律してアウトドアを楽しむことのできるバックカントリーに入ることにも挑戦してみましょう、というのが私からのメッセージです。

たとえばですが、まず家族で日帰り登山をしてみるのはどうでしょうか。キャンプ場だと空いた時間にゲームをしたりお酒を飲んだりと、家にいる時と同じような過ごし方をしていることも多いかと思います。本来、キャンプは宿泊の一つの手段です。時にはキャンプ自体を目的にするところからもう一歩進んで、決められたルールのない自然の中で、自律的に行動することにチャレンジしてみてはどうでしょうか」


今の時代は、これからの予測がつきにくい時代。そんなルールが見えにくい環境を生き抜くためには、自分の中に判断の「基準」を持っているかどうかが問われる。きっとそれは街中でも、自然の中でも同じこと。この取材以降、普段の生活でも暮らしからでるごみがどんな素材でできているのか、そして自宅で使っている洗剤が環境にどんな影響を与えるのかについて、以前より自然と興味を持つようになった。

都市も里山も手つかずの自然も、別世界として分断されているわけではなく、必ずどこかで繋がっている。旅で訪れた先がどんな環境だったとしても、自分のものさしで判断できるような原則を元にそこで行動できること。そんな在り方は、ただ盲目的にその場所のルールに従うよりも意外と楽しいものなのでは、と今回気づいた。

次に自然の中に遊びに出かける時には、LNTの理念の存在を知ることで芽生えた、そんな気づきを携えて出かけることにしたい。

【参照サイト】Leave No Trace Japan公式サイト
【参照サイト】Wilderness Education Association Japan