「美しいものを見つけてください」
ボルネオ島での旅の始まり、「いのちをつなぐ学校」の校長であり、生物学者の福岡伸一先生(以下、フクオカハカセ)は私たちにそう言った。それから、こう続けた。
「何を感じたかを心に刻んでください。何に驚きや不思議さ、美しさを感じたかを忘れないようにしてください」
今度は、私が読者の皆さんに同じ言葉を伝える番だ。
「美しいものを探してください。そして、その理由を探してください」と。それは、簡単ではないかもしれない。でも、心から美しいと思えるものに出会えたとき、あなたの人生にも地球にも、今よりもっと豊かさが溢れるはず──。
マレーシア・ボルネオ島で、さまざまな生命に触れていのちについて考える旅のレポート第二弾。ここでは、生物学者としてあらゆるいのちと向き合い続けてきたフクオカハカセが残してくれた、「いのちをつなぐ生き方」のヒントとなる言葉を届けていく。
視点を変えて美しいものを探したら。そこに垣間見える自然の秩序
クロッカー山脈の中腹・標高700メートルの位置にある、キパンディバタフライパーク。熱帯雨林の植生や珍しい昆虫が間近で見られるその場所で、夜、明るく照らされたライトのもとに、無数の虫たちが集まっていた。蛾やチョウから巨大なカブトムシ、それからサソリまで、数えきれないほどの昆虫たちが、光のもとへと大集合している。
虫嫌いの人は、思わず後ずさりしてしまうかもしれないが、これほど多種多様な生物が一堂に会す様子は、おそらくなかなか見られない。子どもも大人も一緒になって、そこに何がいるのか観察した。
「これまで気持ち悪いな、嫌だなと思ってちゃんと見ていなかった生き物や植物をよく見ると、とても美しく、精妙にできていると感じました。ゴキブリもよく見ると美しい形をしていて、サソリも美しい動きをしていました。私たちはもっと、我々を縛っている常識的な見方、道徳や倫理から自由になり、もう一度、素直な気持ちで自然を見ることが大切なのかもしれませんね」
ツアー初日の夜、キパンディバタフライパークを訪れた帰り道、フクオカハカセはそう感想を述べた。それから、こう問いかけた。
「では、『美しい』とは何でしょう?自然や生物を見たときに感じる『美しさ』とは何でしょうか」
「私は、チョウが大好きで、その身体が左右対称であることに美しさを覚えます。その理由は、そこに自然がつくりだした秩序があるからです。秩序とは、自然の仕組みが過不足なく動いている結果見えてくるもの。その自然の秩序がバランスよく表現されているとき、美しいと感じるのです」
生命にとって必要なものから、自然について考えていく
自然が生み出した秩序が垣間見えるもの──ここでいう「美しいもの」をそう定義づけたフクオカハカセ。なぜ、「美しいものを見つけるように」と私たちに伝えたのか。
「私は青いチョウが好きなんです。カラスアゲハという真っ青の紋を持つチョウがいて、見るとハッとするような美しさを覚えます。そこで、なぜ人間が青い色を見ると綺麗だと思うのかを考えてみたことがあります。私の考察では、それは光と関係しています。
青い光あるいは紫の光は、波長が短くて強いエネルギーを持っています。波長が長い赤い光は、水の中で散乱されますが、青い光は海の深いところに届くのです。海が青いのはそのせいです。また、太古の地球では、海は生命のゆりかごでした。光合成をする藻類にとっては、光の方向に行かないと光合成ができないし、小さな海洋生物にとっても、暖かいところにいかないと、生命活動がうまくいかない。生物にとっては、太陽のありかが大事で、海の中で太陽の光を探しながら、その方向に泳いでいったと思われます」
「そのときの手掛かりになっていたのが、波長が短くて強い青の光。つまり、青い光は、生命が進化するずっと昔から受け継がれているものであり、『生命にとって必要なもの』なのです。それゆえに、私たちは青に惹きつけられるのかもしれません。そういうふうに探っていくと、美しいと思えるものには訳があって、生命の仕組みや生命の摂理に合致しているものほど美しく見えるはずなのです。
そのように美の概念を捉えると、自分が美しいと感じるものの理由を考えることは、『自然について考える』ことにもつながっていくのではないかと思うのです。ですから、この旅でも『美しいものを探してほしい』と皆さんに伝えたのです」
モヤモヤの理由を「自分の言葉」で説明できるように
ボルネオ島での旅路、私たちは「美しいもの探し」をしながら、モヤモヤとしていた。ゾウの保護施設は本当に必要なのか。何もしないよりはした方がよいのだろうか。どこまで人間は他の生物に介入すべきなのか。いや、しないべきだろうか──行く先々で目の当たりにするさまざまな情景は、答えの見いだせない問いを投げかけた。
「動物と人との共生について考えたい」「動物保護の現状を知りたい」そんなテーマを持ってボルネオの地にやってきていた子どもたちは、現状を見ればみるほど、困惑しているようだった。同様に大人たちも。そんなふうにモヤモヤを隠し切れない私たちを見たフクオカハカセは、こう言った。
「モヤモヤを感じるのは、何かが生命の基本的なふるまい方に反しているからです。本当の自然から離れた人工的な部分に対して、『美しくない』と感じ、疑問が生まれているのだと思います。
だからこそ、なぜそれにモヤモヤを感じるのか。なぜそれを美しくないと感じるのか。その理由を新しい言葉、より解像度の高い言葉で解きほぐすことが大事なのです。何もしないよりは、ゾウやオランウータンの保護施設をつくった方がいいかもしれない。でも、ゾウやオランウータンだけを大事にして、他の生物を大切にしなくていいというのも違います。モヤモヤの理由を探り、それを自分の言葉で説明できるようにする。それは、この旅における問いであり、人生における大きなテーマになるかもしれません」
「美しい」という価値基準で社会の問いを解きほぐすこと
美しいものや美しくないもの、モヤモヤの正体を見つけ出し、その訳を探る。そして「自分の言葉」で語れるようになること。フクオカハカセが、それを重要視する背景には、「真・善・美」という3つの価値基準があった。
「世の中のさまざまな問題は、ほとんどが3つのレベルで議論されています。『真』と『善』と『美』。つまり、『真偽』『善悪』『美醜』です。これらが混ざりあって話し合われると、対立する意見が平行線で終わり、いつまでたっても議論はまとまりません。真偽はこれまで科学が担当してきた部分が大きいですが、善悪は、社会的な倫理や道徳、宗教的信念、政治的な観点などの色々な観点で議論されます。この『善悪』という価値基準が、大変ややこしいものなのです。
今世界で議論されている気候変動や原子力の問題もですし、『ボルネオゾウの保護施設は必要か』という問いもそうです。善悪や真偽で議論すると、宗教や社会の規範に縛られて、議論が難しくなってしまいます。そこで、大事になるのが、『美醜』のレベルで考えること。地球上のあらゆる循環は、生命の循環とともにまわっているから美しいのであり、それと関係のないところでまわるとなると、美しくないと感じるわけです。
たとえば、私は原子力の核分裂のサイクルが生命のサイクルに全くリンクしないことから、原発は『美しくない』と感じます。現に、核廃棄物はどんどんと増え、エントロピー(乱雑さ)が増大している状態がつくりだされています」
旅の間、私たちはアブラヤシのプランテーションを訪れた。その「コスパの良さ」から、主要産業としてどんどんと拡大されたアブラヤシのプランテーションは、1,500万年以上も姿を変えなかった熱帯雨林や泥炭湿地林の姿を変え、わずか50年ほどでボルネオ全体の40%の面積が消失した(※1)。もともとあった熱帯雨林は破壊され、そこにいた動物たちの住処は奪われ、生態系は大きく影響を受けている。
そうした現状を改善しようと、認証制度の仕組みなどもつくられているが(※1)、世界中で批判の的になっているこのプランテーションについてもまた、善悪ではなく、「美醜」を軸に考える必要がある。プランテーションで生計を立て家族を養う人や子どもを学校に行かせるために働く人、環境や動物保護の観点から原生林の豊かさを取り戻したい人──その両者は、おそらく「善悪」という観点からは相容れないだろう。
「美しいと捉えるか醜いと捉えるかは、一人ひとりが感じることであり、その気持ちは誰にも邪魔されない固有の価値観です。一人ひとりが美しいと感じることは、その人にとって本当に美しい。なので、『なぜ美しいと思うか』をきちんと説明することができたとき、それは独自の言葉になります。そうして初めて言葉に力がもたらされるのです」
自分の言葉で語れるようになるために。チューインガムを噛み続ける
ボルネオ島で過ごした約1週間。フクオカハカセから「美しいものを探す」というテーマを与えられ、自分が美しいと感じるものを見つけようとした。羽の色が鮮やかなチョウや大ぶりの真っ赤な南国の花、水面に映る満月や空に浮かぶ星……「美しい」と感じられるものはたくさんあった。しかし、いずれも「なぜそれは美しいのか?」と訊かれると、はっきりと答えられなかった。そのとき私は、「なんとなく」美しいと思うだけで、そこに「深いまなざし」が欠如していた自分に気が付いた。
そんな私のような人に対して、フクオカハカセはこう言った。「チューインガムを噛むように粘り強く付き合い続けてください」と。
「美しいものは美しい、美しくないものはちょっと違うな、というのはわかるとしても、その理由、その美しさがどこから由来しているかは、すぐには言語化できないことが多いのです。むしろ、どこまでいっても言語化し切れないかもしれません。たとえば、釣りをするとき、餌をつけて投げれば必ず釣れるわけではなく、タナ(魚が遊泳している層)がどこにあるかを探ったり、色々なタイプの餌を試したりすることが必要です。色々な条件が最適化されたとしても、その日・時間の潮の具合でうまく釣れないことすらあります。
つまり、自然はこうすればこうなる、というふうにアルゴリズムでは動いておらず、偶然で動いています。だからこそ、じっくりと付き合っていかないと扉を開いてくれないし、わからないことが多いのです。ああでもないこうでもないと長い時間をかけて、自分が興味を持ったものと付き合っていく。そうして、ようやく見えてくるもの、気づかされるもの、あるいは言語化できるものが増えてくるのではないでしょうか」
「まずは、五感を使って自分の感情に気づくこと。そして、美しいと感じたものに対して、チューインガムを噛むように粘り強く付き合い続けること。すぐに結論や言葉を求めず、興味や関心をずっと持ち続けることが、大事なんじゃないかなと思います。『センスオブワンダー』を出発点に美しいものを見つけ出し、それが何に由来しているのかを考えてください。そして、借り物の言葉ではなく、自分の言葉で語れるようになってください」
心を研ぎ澄ませ、美しさを探す旅に出る
ひたすらに視線を上げ、夢中になって虫取り網を振りかざす。ヤモリを探して排水溝の中を覗き込んで歩く。ケースに触れてしまいそうなくらい顔を近づけて標本のなかのチョウをじっと見つめる。ボルネオ島で過ごした6日間、わき目も振らず、ただひたすらに「好き」を追いかける子どもたちは、「美しさを心で感じる」大切さをその姿で教えてくれた。何かに必死になる姿に、私はこれほどまでに「美しさ」を感じたことはなかったし、素直に「羨ましい」と思った。
五感が研ぎ澄まされた10代の心には、目に映るもの、聞こえてくる音、そのすべてが敏感に感じられるだろう。多様性あふれるボルネオという地での記憶は、いつまでも残るだろう。だが、理性やしがらみ、さまざまな常識に頭を悩ませる大人だって、美しいものを美しいと感じられるはずだ。感じるための「心」は失われていないのだから。
これから私は毎朝、外に出てほんの数分、いや数秒間でも立ち止まり、大きく伸びをしてみようと思う。そして、目の前の小さないのちを見つめ、聞こえてくる音に耳をそばだて、漂ってくる香りに大きく息を吸い、肌に触れる空気を感じてみる。誰にも邪魔されない本当の「美しい」ものと出会うため、心を研ぎ澄ます。
そうして、その訳を探りたいと思うほどの「美しいもの」が見つかったときには、まるで美味しいものを食べるように、その美しさをじっくりと味わってみようと思う。
※本記事は、ハーチ株式会社が運営する「IDEAS FOR GOOD」からの転載記事となります。
※1 認定NPO法人ボルネオ保全トラスト・ジャパン 3分でわかるパーム油
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【参照サイト】いのちをつなぐ学校
伊藤智子
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