北アルプスの最奥部、雲ノ平で、偉大なる山々とつながる旅

何年か前からずっと、訪れてみたいと思いながら叶っていなかった場所があった。

「雲ノ平」

名を聞いてその地の美しさが目に浮かぶ人は、山登りがお好きな方だろうか。風景写真がお好きな方だろうか。
地上に存在する、楽園のような景色がそこにはあるのだ。

北アルプスの最奥部、中部山岳国立公園内、黒部源流域の標高2,600メートル付近に位置する溶岩台地、雲ノ平。住所としては富山県富山市に位置するが、ここにたどり着くまでのアプローチはとても長く、新穂高温泉(岐阜)、折立(富山)、高瀬ダム(長野)いずれの登山口から歩いても1日半以上はかかる。

今年3月、東京都内で行われたパタゴニア主催のトークイベント「山と私たちの対話 雲ノ平の環境保全活動」で、雲ノ平にある山小屋「雲ノ平山荘」のオーナー、伊藤二朗さんのお話を聞く機会があった。(トークイベント詳細)。国立公園や山小屋をとりまく環境危機の影響、雲ノ平トレイルクラブで行っている環境保全活動の内容について写真やお話を通じて理解するうちに、この場所に自分の足で訪れ、その風景をこの目で見たいと強く感じた。

行ってみたいと思って簡単に行ける場所ではないのが、上述したアプローチの長さだ。「最後の秘境」とも呼ばれるこの場所、行くのも遠いし、行ったからには2-3日で帰ってくるのはもったいない、もう少し長く山に滞在したい。
憧れではありながら行ったことがない山域であり、ガイドさんが案内してくれるツアーで訪れるのが今の私には最適と判断。4泊5日の長めの行程で富山・折立から歩き始め、雲ノ平を経由し、鷲羽岳に登り、新穂高温泉に降りるツアーに申し込んだ。その時は4月になったばかり、ツアー時期は7月下旬、梅雨が明けるか明けないか微妙なタイミングだが、夏山登山のツアーは何カ月も前に予約し、体力づくりに励む。

ちょうど山から帰ってくる頃に梅雨が明けそう、という雨多めの天気予報のなか、旅がスタート。富山駅でガイドさん2名と他の登山客6名と合流。登山口折立から、その日の宿泊場所、太郎平小屋を目指し歩き始める。登り始めの30分は体が山に慣れていないため毎回呼吸が苦しい。鬱蒼とした樹林帯のなか、前日までの雨に濡れた土の匂いに、山に来たなぁと感じる。

途中の川の水が涼を呼ぶ

2日目、この日はいよいよ雲ノ平へ。初日の宿泊地太郎平(標高2,300メートル)との標高差は300メートルしかないが、一度400メートル下り、そこから700メートルを登り返すという非常に傾斜のきついルート。しかも登り返しの700メートルは直登、ほぼ壁のように感じられる。登山道は通常、斜面に対して左右にジグザグに昇り降りするように付けられるものだが、この道を作った人は「俺は直登だ!」と斜面に対して真っ直ぐに道をつけてしまったらしい、と、ベテランガイドさんが解説してくれた。
とにかくきつい、私の人生最大の斜度、体もつらいが心が折れないように頑張るのみ。何せここは北アルプス奥地の山の中、心が折れたとしても引き返せる場所ではない。

そんな急登を、休憩をはさみつつ5時間程度登った先に、楽園はあった。

平らな草原に点在する池塘、満開のチングルマ、雲ノ平山荘、周囲を見渡すと、水晶岳、三俣蓮華岳、黒部五郎岳、笠ヶ岳、薬師岳、立山連峰などの名峰が広がる。

チングルマの花、奥には雲ノ平山荘、その奥には水晶岳

「これらの山々のすべての山頂に雲がかかっていないのは、今シーズンで初めて」と、山荘オーナーの伊藤さんが話してくれた。この風景を見るために東京から来たのだ。この日登ってきた急登、もし大雨だったら相当危なかっただろうと、天候に恵まれたことに心から感謝した。

現在この場所にある雲ノ平山荘は、2009年から2010年にかけて新たに建築されたもので、新しく非常に美しい。

新しい雲ノ平山荘は、日本の在来工法を駆使し、景観に調和する美しさと堅牢性、機能的で快適な居住性などを兼ね備えた建築になっている。構造材にはヒバ、栗、唐松などの耐朽性の高い国産木材を用い、また地面の湿気対策として若干高床構造にするなど、多雪で寒暖差が大きく、多湿な雲ノ平の気候に適応するための様々な工夫が施されている。また、ソーラー発電やバイオトイレ、雨水の浄水システムなどの環境テクノロジーを取り入れ、可能な限り自然環境に負荷をかけないシステムを構築している。参照元:雲ノ平山荘 公式サイト

山荘内は、60名まで泊まれる広々とした空間。
この日は、雲ノ平山荘の皆さんが取り組んでいる登山道の整備活動について、地元富山テレビの取材班が訪れ、山荘の様子を撮影していた。

山荘内の写真の展示と本棚

ここでは他にも、アーティスト・イン・レジデンスというプロジェクトが行われている。アートを通じて社会と自然環境の調和をデザインする試みであり、無垢の自然生態系に刺激されながらアーティストたちが新しい表現を探求する機会の創出を目的として、2020年春に始動した。環境危機や情報化の混乱に歯止めがかからなくなりつつある現代において、自然と人間がどのような豊かな関係性を再構築できるのか、新しい発見をもたらす一助になることを目指す活動だ。2025年春にはこの活動から生まれた作品の展覧会が予定されている。

山荘からの風景 手前には池塘が点在、奥には笠ヶ岳

この時期は、アーティストのひとり、菅野晴弥氏の写真展 Traverse が山荘内で開催されており、彼が北インドに滞在した際に撮影された写真の数々が展示されていた。

夕食までの時間を、写真を眺めたり、山荘内に置いてある本を読んだり、珈琲を飲んだり、外に出て周囲の山々を眺めたり、他の登山者と話しながら過ごす。山小屋で過ごすいちばん好きな時間だ。
夕食は、山荘名物の石狩鍋、鮭やジャガイモの温かいスープは疲れた体に沁みる。

夕食の準備が進む食堂

翌日は鷲羽岳(2924m)に登頂し、三俣山荘へ。夜から翌日午前中にかけて暴風雨に見舞われ、雨風の音と不安で眠れない夜を過ごした。スマートフォンに入っていたお気に入りの音楽、クラシックギターの音色に救われたが、この音楽がなければどうやってこの夜を乗り越えただろうと思うほどの自然の脅威を味わった。

そして翌朝6時出発の予定を、ガイドさんの判断で8時に遅らせ、それでも強い雨風の中歩き始める。悪天候のため、予定していた三俣蓮華岳、双六岳への登頂は断念。強風のなか稜線に出るのは危険とのガイドさんの判断により、ハイマツに風を遮られながら安全に歩くことができ、午後には雨も止んだ。その後鏡平小屋を経由し、新穂高温泉で4泊5日の行程を無事終了した。

鏡平小屋から眺める槍ヶ岳

山岳ガイドという専門家の知識や経験、そして快適な山小屋という安全な場所に守られた中での自然の体験は、自分の身ひとつで極地に向かうような本格的な冒険・探検とは性質が大きく異なる。それでもこのような形で自然を体験できることは、自然に対する畏敬の念、それを守る人達の活動に対する尊敬や感謝を改めて持つ機会をくれる。そして、便利な日常生活の中で、ともすれば鈍ってしまう感動、感情、感覚、勘など、本来動物として持っていたはずの能力を少し取り戻せるようにも感じる。

冒険家でなくても、頑張ればこのような体験がえられる、山が持つエネルギーの大きさを改めて認識する貴重な機会となった。そして、そこまで行って帰る長い道のりには本当に体力が必要だということも痛感する山旅であった。絶景の雲ノ平、興味のある方にはぜひその目でその体で体験していただきたい。

【参照サイト】雲ノ平山荘
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和田麻美子

趣味のハイキングを通じ、限られたモノや環境下で最大に楽しむこと、極力ごみを出さないように暮らすことを意識するようになり、Own less, waste less, enjoy more を心がける日々。旅先でハイキングをする山旅、ライブを楽しむ音楽旅を好む。